犬は月をめざす

もっとブワァー!ときてボーンと!

欠陥

知らない猫が家のなかに入ってくるようになった。
我が家は欠陥住宅です。欠陥住宅という言葉でだいじょぶなのか不安になるくらい欠陥だらけです。住宅に欠陥があるというより、欠陥が家の形をしている、と表現したほうがしっくりきてしまう。ダメな家。

うちは元々平屋だったらしいのだけど、今は二階建てであります。増築です。ただし大工さんが建てたんじゃない。マイファーザーが建てたのだそうです。父。AVを100本以上所持していて、本人は隠してるつもりらしかったが、小学生の私に普通に見つかる場所にしか隠しきれなかった、不器用で少しおっちょこちょいな父。私は今でも、父が本当に二階を増築した張本人なのか半信半疑なのであります。しかし、かつて母も姉も「お父さんが作った」って言ってたので、いちおう裏は取れている、と思う。びっくりする。人って二階を作れるんですね。人ってスゴイ。父ってちょっとスゴイ。

しかしここで父の不器用でおっちょこちょいな部分、ダイレクトに言うとAVの隠し場所もそうだったように、詰めが甘い部分が祟りに祟りまして、今や我が家は欠陥住宅です。おっと間違えた。住宅の形をした欠陥です。
雨漏りは当然ながら、床はたわみ、ドアがきちんと閉まらない。そのドアをこじ開けて知らない猫が堂々と忍び込むのです。こら!やめろ!そのキャットフードはmy sweet catことタンゴ君のものだ!食うな食うな!めっ!あれ?なんかこの猫デブ?デブだな!えっ首輪してる。えっもしかして。この猫って、お向かいさんの猫。そういえば窓から猫の鳴き声がしてたような。まいった。わたしはお向かいさんがとてつもなく苦手なのだ!文句なんて言いに行けない。信じられない。お向かいさんは太い人だけど猫も太いなんて。ペットは飼い主に似るのか。
そういえば「部屋はそこに住んでる人を現す」みたいな言葉があったな。それが本当なら欠陥住宅に住んでる私は。いや、住宅の形をした欠陥に住んでる私は、人間の形をしたダメなのか。そうなのか。そうなのか?
猫よ、違うと言ってくれ。


夜の淵とはどこだ。
いま夜の淵という曲を聴きながらこれを打ってる。
淵は「ふち」と読むけれど「縁」の意味はない。淵の意味を検索してみた。

〖淵〗 エン(ヱン)・ふち
1. 水を深くたたえているところ。 「深淵・淵叢(えんそう)・淵藪(えんそう)・淵源」
2. 深い。また、深く静か。 「淵酔(えんずい)」

ふむ。ふむふむ。夜の淵とは、夜の深くて静かなところとなる。夜は大概静かだ。少なくとも昼よりは静かだ。何もない田舎だって夜の方が昼よりは静かだ。暴走族の暴走ルートの近くでなければ。
深さとは何の深さだろう。思慮かな。夜はほとんどの人は寝ているから思慮も何もあったものじゃない。眠りの深さだろうか。熟睡した時に「いやぁ、昨晩は夜の淵に立ちましてね」なんて言ったらちょっとロマンチックだね。
夜には何となく潜るイメージがある。
昼には潜るイメージはない。昼は陸だ。大陸なんだ。ユーラシアかな。アフリカ。ヨーロッパ。明るくて乾いてて、ギラギラしている。それが昼。
夜は違う。一転する。暗くて少し湿っぽい。きらめきは無いのにどこかつやっぽい。まるで水面(みなも)。深くて底が見えない水面が夜だ。人は毎日、その水面に引きずり込まれる。知らず知らずのうちに身を預ける。万有引力の法則によってリンゴが木から落ちるように、それは当然のことのように。

「穏やかな夜に身を委ねるな、怒れ、怒れ、消えゆく光に」
とある映画に出てきたフレーズを思い出す。
夜は荒波ではない。静かで寡黙だ。その不気味な平穏に、私たちは時々慌ててたじろぎ、水面を波立たせたりする。騒がしい夜とは夜が騒がしいのではなく、私たちが騒がしい。静かだからこそ、騒ぐことが際立ち、楽しい。夜はただ静寂に佇む。

淵には、物事の出てくる根源、物の多く集まる所、という意味もあるらしい。
夜は、昼に顔を出さなかったもの、出せなかったものが出てきて集まる。色んなものが集まる場所。そこが夜の一番深いところなのだろう。水面からは、淀んでいてとても見えない場所。昼には手が届かなかった場所。
夜明け前が一番暗いと言う。夜の淀みはみんなの心の中にある。どうか溺れてしまわぬよう。

なんてね、書いたってね、田舎の夜はヒマなのだよ。夜の淵isヒマ。コンビニまで徒歩三十分だよ。山までは徒歩三歩くらいなのに。ていうか既に山だし。毎日のように猫がネズミ、モグラ、鳥を獲ってくるし。夜は怖い。イノシシ出るかもしれない。勝てる?イノシシ。ジャンピング傘で追い払えるらしいです。試したいけどイノシシとは絶対にエンカウントしたくない。私が勝てる野生動物はなんだろう。社会に飼い慣らされた、私に、勝てる、野生の、どうぶつ。ハムスターに噛まれても痛そう。もうだめだ。

高校に淵先生という人がいた。ハゲてた。佐野常民をものすごくプッシュしてた。佐野常民はね、赤十字を作った人です。佐賀生まれの偉い人です。記念館もあるよ。行ったことないけど。イノシシにやられたら赤十字は助けてくれるのだろうか?



気づき

拍手とゲリラ豪雨は似ている。
タ、タッ、タタタッ、、
ダーーーーーーーーーーーーーーー!!
本日の気づき。

再放送してたスイッチが面白かった。
スイッチとはNHKの番組です。「ゴリラと会話できる京大総長」って文字が映ってて、ゴリラと会話できるだけでもスゴイのに京大総長だって。鬼に金棒かよ。いや総長にバナナかな?ゴリラと会話できるくらいだし。ゴリラかあ。頑張ったら会話、できるかなあ。例えば動物園のゴリラと会話できたら何話すんだろうなあ。「ここから出して」って言われたら困るし「こっち見てんじゃねーよボケ」くらい言ってそうだなあ。

あんまり関係ないけど会話の出だしは天気の話が最強だと思う。何にせよ天気の話さえしておけばいいんです。コンビニ店員してた時は今日の天気について1日5回は同じ内容を聞いて、聞いた。定型文はつまらないけど絶対的な安定がある。安定と安心の定型文。

気持ちを読むことはそれほど難しいことじゃない。気持ちを読んでそれに相応しい対応をすることがとても難しいのだと思う。人にもそして自分にも。



周期

午前6時就寝。午後1時半起床。このあいだ読んだ本にはノンレム睡眠とレム睡眠のサイクルがどうのこうの、つまりは90分周期で浅い眠りが回ってくるから90分の倍数で起きればスッキリ目覚められるって書いてあって今日は正しく450分、90分周期で起きれたわけだけど、目は覚めるけど次のアクションが起こせない。起き上がれないのだ。全自動起き上がらせ機が欲しい。いっそ身体の動きを外注したい。機械の身体が欲しい。
もう恋人はいらないから生活指導してくれるコーチが欲しいと割と本気で切に思ったけど、生活指導してくれるコーチみたいな人を恋人にすればいいのでは、と欲張りな考えを紅茶と共に流し込む。
ボヤけた頭で猫にちょっかいを出してもれなく今日も威嚇される。正確には威嚇されるまでちょっかいを出し続ける。
夕方から約束。
帰りはブックオフに寄って別役実の文庫を買った。あと累と宝石の国の新刊も。
難しい本を読みたい。ウンウン唸りたい。わかることなど殆どないって、わかった気でいるお気楽な脳みそに脳天チョップを繰り出したい。そういう周期なんだと思う。

タイトルはどうしよう

猫にちょっかいを出しすぎて抱っこしただけで威嚇されるまでに嫌われた。好きなものにはちょっかいを出しすぎて嫌われる。
三連休最終日の高速道路はひどく渋滞していて待ち合わせの時間に少し遅れそうなことをスマホ片手に気にしながら、渋滞を見越していなかった自分にイラついた。タイムスケジュール管理。予測の甘さ。場当たり的。その場しのぎ。
昨晩から言葉を歌う音楽が聞けなくなったので、車中ではずっと戦場のメリークリスマスを聴いていた。時期が近い。タイムリーなタイトル。センチメンタルな旋律。一向に進まない渋滞の先を、暮れてゆく空を、交互に眺めながら、流れる音楽が確実に過ぎてゆく時間をいつもより少しだけ感傷的に彩る。
この瞬間のこともいつか忘れてしまうだろうなと思うことがままある。友人と馬鹿騒ぎしてはしゃいでる時、気になってた人に恋人がいたことを知ってショックを受けた時、観たいと思った映画の予告、二軒目のバーで飲んだカクテルの味。
「忘れはしない、思い出せないだけで」って有名なアニメのおばあちゃんが言ってた。忘れたはずの思い出が何かの拍子で記憶の上澄みの方へ戻ってくることがあって、今度はきちんと重石をつけてもう二度と思い出さないよう奥の奥の奥の方へ沈めてあげたい。
いつもなら気に留めず忘れるけれど、たまには書いて残す。タイトル。タイトルはどうしよう。


『プラダを着た悪魔』を観たんご。

2006年の映画。えーーーーーーーーーーーーーーーと?今は??2015年だから…??あれっえっうそっ!!キュキュキュキュキューネン!?!9年前?!?9年?!!恐ろしい!!9年あれば小学校低学年の子が次会ったときは高校生とか、そういう9年ですよね?時の流れイズやばいですね。というわけで2006年の映画を2015年に観た感想です。

まずね、テンポがよかった。映像の流れがサクサクしててテンポが良いのでDVDで映画を見るときは必ず3回以上休憩を挟む私が1回の休憩だけで観れました!素晴らしい。

ストーリーはね、ストーリーは……このクソババアが!!!死ね!!ファックファックファックファック!!!!!って映画の7割くらい思ってましたね!!
うん、ごめんね。わかんないよね全然!以下、wikiのペディアから引用します。

名門ブラウン大学(映画版ではノースウェスタン大学)を卒業し、ジャーナリストを目指すために田舎からニューヨークへとやってきたアンドレア・サックスは、幸運にも何百万の女性の憧れとする仕事・ファッション雑誌『ランウェイ』の編集部へと就職した。しかもその編集長でファッション業界に対し絶大な影響力を誇る、ミランダ・プリーストリーのアシスタント職である。だが、ミランダは自分の身の回りの世話をアシスタントに押し付けるなどの横暴を発揮する最悪の上司であり、今までに何人もがこの仕事を辞めていたのであった。ファッションには何の興味もなかった彼女であるが、本来の目的である文芸誌での仕事への足がかりとして、彼女の悪魔のような要求に耐えていく。


引用に少し書いてあるけど、上司の鬼ババアが仕事はできるけどとてつもないクソでして、どの辺がクソかというと、うーんとねほとんどクソです。
アシスタントのデスクにコートとバッグを毎朝投げ置き、朝のコーヒーは熱々じゃないとダメ、アシスタントは名前が何であろうとエミリー、悪天候のため飛行機が飛ばないのに帰りたいと駄々をこねもちろん帰れるはずがないのをアシスタントのせいにして出版前のハリーポッターシリーズが読みたい、開店前のステーキが食べたいなどの無茶難題を押し付ける、しかもステーキは予定が変更になったと言って食べない、自分の子供の宿題をアシスタントにやらせる、、、などなど。
こんな奴が母親だとね、絶対絶対絶対子どもグレますね!!確実ですよこれは!!最後らへんに「私のことはゴシップ誌に何を書かれてもいいの…でも子どものことは…」みたいに言うシーンあるけど、子どもは親の鏡やでーー????もしもーーーし???ってなりましたね。蛙の子は蛙です!!ああ!!かわいそうに!!!

アシスタントのアンディもファッション誌の仕事についておきながら「その2本のベルトは私には同じに見える」って核爆弾投下レベルの発言をしててアイタタタター!!!たすけてーー!!おかーーーさーーん!!この人たちもうだめーー!!ってなりました。

さてキャラクタの悪口はこの辺にして(スッキリした!!)この映画、割とシビアな映画だなと思ったんです

アンディはファッションに興味がないにも関わらず、ナイジェルおじさんの助けによって変貌を遂げます。そして先輩助手のエミリーに取って代わり、パリに同行します。
この映画でアンディはいつも「仕方がない」と言います。これは逃げのセリフであると同時に強者が弱者を倒すときの言い訳でもある。
消去法であれ自分が選んだ道をあたかもそれしか道が無かったかのようにアンディは「仕方がない」と言います。自分が何を選んだか無自覚。アンディがついているポストは、たとえそれが望んだものではないにしろ、誰かを押しのけて付いているポストなのになー。
才能がある人は、ない人を押しのけてしまう。才能ある人の普通が、才能ない人の努力をいとも簡単に追い越してしまう。そういうシビアさが垣間見えました。
ミランダはアンディにあなたは私と似ていると告げ、さらに言います、
「人が何を求め必要としているかを超え自分のために決断できる」と。これは鬼ババアとはいえ、いい言葉だなぁ!!すべての選択は自分のために決断すべきなんです。自分が理由にならなくちゃダメなんです。でもクソババア!!!!てめーのは度がすぎるで!!!!!!!


最後はちゃんと救いというか、なんと言うか、あります。
用意されたどんな才能も、好きなことには敵いません!!
好きって強いですね。


バードマン あるいは無知がもたらす予期せぬ奇跡

「人生はアップでみると悲劇だが、ロングショットではコメディだ」とは、かの有名な、プッチンプリンみたいな名前のちょび髭のおじさんの名言です。

バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)は間違いなくコメディだと思うのです。のっけから主人公が宙に浮いているんです。主人公の初登場シーンがね、宙に浮いているんです!あぁ、ウワー、何だかよくわからないけどとんでもない映画だなぁと思わせるに足る笑撃的なシーンでした。

この映画、ほぼ1カットで撮っているように作られているらしく、ドキュメンタリーのような不思議な圧迫感がありました。
まるでそこで現実を見ているような感じ。
「人生は要約できねぇんだよ」と伊坂幸太郎の小説『モダン・タイムス』でのセリフですが、まさしく人生はカット編集できんのだ!という感じ。

さて面白いのが、さも現実を見ているようなリアリテイがありながら、何と主人公が超能力使えるんです。超能力ですよ!物を触らずに移動できるのです!しゅごい!しかしこの超能力があることを主人公は誰にも言っていませんし、見せてもいません。
だから本当に超能力があるかどうか判定のしようがない。
これ、娘が主人公に向かって「FacebookTwitterもしてないパパは存在しないの!居ないのと同じ!誰も気づかない!」みたいな事を吐き捨てるんですけど、見事にかぶりました。超能力も、演技も、相手に見せなければ無いのと同じ。うわー!なんて真実を突く鋭い言葉なんだ!
そういえば寅さんが似たようなことを言ってました。「思っているだけで何もしないんじゃな、愛してないのと同じなんだよ」って。さすが寅さんだ。しゅごい!

さてさて、主人公は別に何もしてないわけじゃないんです。レイモンド・カーヴァーという作家の作品の劇をやって、また一発ドカンと言わしちゃるで!という感じでやる気まんまんなのですけど、細々したことが色々あってとってもとっても大変。過去にバードマンとしてヒットしている主人公は、人から必ず過去の成功と現在を比較されます。過去と現在って比較可能なのかな?ああ難しそうなのでこれはパス!パース!
見るからに性格がキツそうなオバハン批評家さんからひっちゃかめっちゃかに言われた主人公が反撃で言う「芸術家になれないものが批評家になる、兵士になれないものが密告者になる」というセリフはとってもいい切れ味だと思いました。調べたらフローベルの言葉らしいです。

何かを作った人がいて、それをヤンヤヤンヤ批評するのはすでに後手です。どう足掻いても二番煎じです。作ったこと自体がすごいのだ。それを忘れて世の中は批評や評価をもてはやすんだ。盛り上がるもんね。いやごめんよく分かんない!

どうでもいいけど病院のトイレに座ってたバードマン(幻覚のほう)はウ○コしてたのかな?小さいほうかな?「お別れだクソ野郎」って言ってたからやっぱり大の方かな!!

効果音としても音楽としても、ドラムが最高にカッコいいし、小難しいセリフ(酔っ払いがマクベスの一節を大声で唱えてたり)やお洒落な言い回し(「お別れだ クソ野郎」)、意味がわからない超能力、俳優陣、好きな要素がてんこ盛りでとても好きです、バードマン。

そういえば上映中、エドワード・ノートン演じるマイクを見ながら、この人どっかで、どっかで見たことある…何だっけ、誰だっけ、どんな映画だったっけ、と上映中ずっーーーーーーーーーーーーーっと考えていて、結局分からなくて、上映後すぐさまググりました、はい、『ファイトクラブ』でしたどうもありがとうございました。ファイトクラブもとってもいい映画ですよ。みんな大好きブラピも出てるよ。

ラスト、窓から外をみる主人公の顔が良かったし、娘の笑顔もよかった。
コメディなんだから、最後は笑わないとね。
おしまい。