犬は月をめざす

もっとブワァー!ときてボーンと!

『ヴィオレッタ』を観たんご。

ヴィオレッタ [DVD]

ヴィオレッタ [DVD]

実の母親が幼い娘のヌードを撮ったとして問題になった写真集『鏡の神殿(邦題は『エヴァ』)』の発売から34年、被写体だった娘のエヴァ・イオネスコ自身が監督をつとめた映画。

母親アンナは、映画の中で何回もヴィオレッタに「愛してる」と言うのですが、これがとても胡散臭いのなんの、とってつけた感が満載で、一体全体、愛してるってなんやの??と突っ込みたくなった。

ヴィオレッタは、初めは自らポーズをとって見せるなど、楽しそうに撮影をしています。 あまり家に帰ってきたがらない母親と一緒に居られるし、母親の自室兼スタジオに内緒で入れさせてもらったことで、秘密を共有し、母親との親密さが増したようにうつります。

対して母親のアンナは、写真を撮る前、ヴィオレッタを値踏みするような、、品定めするような眼差しで見つめます。

「もっと脚を広げて」など、撮影の要求が過激になっていくなかで、ヴィオレッタのなかに徐々に違和感が芽生えはじめる。母親は「なにを撮っているのか?」という違和感が。

過激な表現がアーティストとして高い評価を受け、母親アンナの名前が世に広まる中で、ヴィオレッタに芽生えた違和感は大きくなり、次第に嫌悪感に変わっていきます。

ヴィオレッタは「母親」に撮られています。 普通のカメラマンでなく、自分の母親に撮られているという意識があります。だから、母親のアンナがレンズを通してみているのは本当に「娘の私」なのか?という疑問がヴィオレッタのなかに出てくると思うのです。

残念ながら、母親が覗いているレンズの向こうに「娘としてのヴィオレッタ」は居ません。 アンナが撮っているのは「被写体としてのヴィオレッタ」であり、「自分をアーティストたらしめさせる存在」の像であり、自分の理想、欲望です。

それらを感じ取ったヴィオレッタは、フライヤーの一文通り「私はママのモノじゃない」と、写真を撮られることに反発します。母親が自分を見ておらず、自分の向こう側にある、自分ではない何かを見て写真を撮っているに気付くのです。

一方で母親は、娘がなぜ反発したのかがいまいちよく分かっていない。 最初は楽しそうに撮影していたし、何よりアンナにとってヴィオレッタは自分と違い「何の苦心もせずに」自分が欲しかったものを手に入れているのです。 若さ、美しさ、環境。 撮られるだけ、ありのままの姿を晒すだけで、人々の羨望を集められる。ヴィオレッタは特別なのです。 鳴かず飛ばずの芸術家だったアンナにとっては、喉から手が出るほどに欲しかったもので、それを自分が写真に撮ることで手に入れたい。 そして、娘がなぜそれを拒否するのかが理解できない、という感じにみえました。

たとえ愛の定義が人それぞれでも、度をこした愛情はすべからく暴力になる。

母親アンナは自分なりにヴィオレッタを愛していると言い、周囲の人間もアンナはアンナなりに君を愛している、と言う。 その愛はヴィオレッタに「写真を撮らせてほしい」という見返りを求めます。愛しているから、お願い、と。 しかしヴィオレッタはその期待に応えられない。 なぜなら彼女が期待に応えれば応えるほど、ヴィオレッタが本当に望むものは、遠のいていくから。 だからヴィオレッタは逃げるしかない。母親の愛が届かないところまで。

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最後に。

キャサリンババが手掛けた華美な衣装がとても良かった。